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河合一充

Author:河合一充
(かわいかずみつ)
 イスラエルと日本の架け橋を願って、85年株式会社ミルトスを創設。イスラエル・ユダヤ・聖書関連の出版編集をもって、日本の社会にささやかな貢献を願った。現在現役をリタイアを考える。ヘブライズムの基なる思想を紹介したいと思っている。

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河合一充 くだん日記
思いつくままに、イスラエル・ユダヤ・聖書・日本など書き連ねる。よってくだんのごとし。
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エルサレムはユダヤ民族の首都
 1月20日は、米国で新大統領の就任式が行われる。世界のメディアが注目しているのは、言うまでもない。
 イスラエルに関心のある1人としてトランプ政権の新中東政策に、これから注視していきたい。まず、アメリカ大使館をエルサレムに移すかどうか。この公約を果たすかどうかは、予断を許さない。アラブ世界の反応を予想すれば、あまりにも危険すぎると、各方面から言われる。特に、去りゆくオバマ大統領が警告を発した。
 政治的には、あながちその警告も見当外れとは言えまい。

 ただし、イスラエル政策に関しては、オバマ大統領の最後の1ヶ月のあり方は、反イスラエルに偏っていたのではなかろうか。国連安保理事会の「イスラエル入植活動非難決議」に拒否権を使わなかったこと。これはこれまでの米国になかったことである。それと、ケリー国務長官がフランスのオランド大統領の主催する「パリ平和会議」と称する会に参加して、イスラエルとパレスチナの2国家共存案を支持する国際会議を支持した。1週間に迫った政権交代の最後に、「いたちの最後っぺ」みたいな挙動である。本気になって、イスラエル・パレスチナの和平を推進する気など感じさせない。だからイスラエルもパレスチナも参加しなかった。

 オバマ民主党政権は、結局、イスラエル・パレスチナ問題の解決に関しては、いささかも前進させることはできなかった。本当は入植地が真の問題ではないのである。
 1947年国連のパレスチナ分割案の趣旨は、ユダヤ人のアラブ人の2国を独立させるとした。アラブはそれを拒否して、全面戦争をしかけて、失敗した。イスラエル国は独立した。1967年の第3次中東戦争(六日戦争)で、イスラエルを抹殺を唱えたエジプトは敗北。その後、アラブ世界は対イスラエル政策として、イスラエルとの交渉を完全拒否、イスラエルの存在を否定した。この歴史的経過を見れば、イスラエルのネタニヤフ首相の主張「イスラエルがユダヤ人国家であることをパレスチナはまず認めよ」が当然の前提であろう。しかしパレスチナのアッバスは依然それを認めたくない。
 
 今年は、ちょうど1967年六日戦争から50年目を迎える。この半世紀、イスラエルの希望に反して、アラブとの和平はならなかった。パレスチナとのオスロ合意も破綻し、世界の非難は依然として衰えず、国連の反イスラエル運動は続く。反ユダヤ主義はヨーロッパに潜在する。それでイスラエルの人々は、50年目を迎える六日戦争の勝利を表立って祝えない。否、祝わないように、思い出さないように努力する向きもある。
 しかし、政治的には問題を残してきた50年間であったが、ユダヤ民族史の観点からはどうなのか。2000年前ローマ帝国に滅ぼされたエルサレムをユダヤ人が回復したことは、聖書の預言といえないだろうか。エルサレムは、ダビデ王が建都して以来、ユダヤ人国家の首都であった。それゆえ、イスラエルがエルサレムを首都としているのは当然である。
 キリスト教もイスラム教も、ユダヤ教の一神教から発した。旧約聖書を共に重んじるのなら、ユダヤ人とエルサレムの不可分の関係は理解できるはずである。

 エルサレムの理解は、政治問題を離れて、歴史と伝統とユダヤ人の心情に思いを致してみる必要がある。
 トランプ大統領が発想したのは、国際政治学からではなく、聖書的世界観からであるとすれば、幸いである。



100歳の誕生日を迎えたユダヤ人カーク・ダグラス 
 あけましておめでとうございます。新年、最初のブログを書きます。仕事場を離れて、しばし物書きから遠ざかると、書くのが億劫になる。頭のぼけ防止のためにも、ブログを再開します。

 まずは、気楽に語れる話題。
 アメリカのハリウッドの大スター、カーク・ダグラスが満100歳の誕生日を迎えたそうだ。昨年の12月9日。Jerusalem Postのコラム・ニュースによれば、その紹介がすごい。
 映画俳優、監督、プロジューサー、作家、慈善家という。その上、大の親イスラエル家である。
 それもそのはず、彼はロシアからの貧しい移民の子として生まれた、ユダヤ系アメリカ人。
 子供の時から、生きることすら苦労、いろいろの仕事をして、そうして役者としての自分の才能に目覚め、映画界に入った。
 有名な出演兼プロジュースした映画は『スパルタカス』で、制作に難儀をしたが、ジョン・F・ケネディー大統領がこっそり鑑賞してほめたのが有名になり、映画は大ヒットした。自分もローマ帝国時代の様子をしのんで、楽しく観たものだった。

 まあそんなに映画ファンでもないので、詳しいことは何も言えないが、カーク・ダグラスがユダヤ人であるのは知っていた。
 面白いのは、83歳の誕生日に、第2の成人式バルミツバーを挙げて、「Today, I am a man! 今日、ぼくは大人の男になった」と叫んだという。ウェストロサンゼルスのシナゴーグにて。

 100歳の誕生日の祝会は、息子のマイケル・ダグラス夫婦が催した。150人以上のファミリーやセレブがお祝いに駆けつけた。イスラエルからも。皆彼の慈善に与った諸団体の人々だという。彼の寄付金は118百万ドル(=130億円)にもなるそうだ。
 息子に言った、「You have to give back. I came from abject poverty. I didn’t dream of becoming a millionaire. So you have to pay back. (世に)返さなければいけない。私は貧乏のどん底からやって来た。百万長者になるなって夢にも思わなかった。だから、お返しするんだよ」

 ダグラスは今もラビの元でトーラー(聖書)を勉強している。彼曰く、
「トーラーは今まで書かれたもののうちで最も偉大な『脚本』だよ。そこには熱情、殺人、姦淫、あらゆるものがある」

 彼はイスラエルの上に祝福を祈り、イスラエルの人々に平和が来ることを心底願っている。
 



古道を求めて
 2016年を送る大晦日である。来る年を迎える所感を。

 良寛禅師の歌にこういうのがある。

  ますらをの ふみけむよよの ふるみちは あれにけらしも ゆくひとなしに

 「ふるみち」は古道の意。「あれにけらしも」は荒廃してしまった、道もあるかどうか分からない様。
 「ゆくひとなしに」は、行く人もいないの意である。真の仏教の道を継ぐ者がいない嘆きであろうか。それを独り歩まんとの雄渾なる決意か。

 芭蕉の「この道や ゆくひとなしに 秋の暮れ」を連想する。
 良寛はこの先人の句を知っていたのであろうか。

 「道」としか表現できないが、分かる人には分かる。それで十分だ。
 日本文芸史上、もっとも光っておられるのは新古今集を編まれた後鳥羽上皇。

  奥山のおどろがしたも ふみわけて 道ある世ぞと 人に知らせむ

 イエス・キリストは「われは道なり」と言われた。

 預言者エレミヤは記している。
  エホバかく言い給う、
  「汝ら道に立ちて見よ、古き途(みち)については尋ねよ、『いずこに善き道ありや』と。
  かつその道を歩め、さらば汝らの霊魂に休息を得ん」(6・16)
(口語訳:あなたがたは分かれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ)

 これからの人生の歩みを想うとき、どこどこまでもキリストやその御弟子たち、代々の聖たちがつくってくれた古道を踏み分け入りたいと思う者である。


ハヌカとクリスマス 共通点あり 今週の聖句「ミケッツ」と重ねて考えると
  今年の12月25日は、偶然にキリスト教のクリスマスとユダヤ教のハヌカの祭りが一致した。ハヌカは今日から8日間続く。それで最終日は1月1日に来る。逆に、キリスト教ではクリスマスの前にアドベント(待誕節)という4週間の備えがある。
 ただし、共通点がある。それは光の祭りであることだ。
 冬の季節が到来すると、日が短くなり、光が恋しくなる。非宗教国の日本でクリスチャンでもないのに、世の中はクリスマスをまあ世俗的だが、迎えている。その迎え方に、イルミネーションは都会で盛んである。家の近くの小さなバラ庭園でも然り。日本のクリスマス風景を、あながち、コマーシャリズムのせいとして批難するにも及ばないと最近は思いだしている。人は「光」を求めているからだ。まだ分からないそれを人々は求めている。

 さて、今週の聖句は「ミケッツ」創世記41・1~44・17である。ヤコブの息子ヨセフと兄弟の出会いの物語が、その内容。
 兄弟に厭われてエジプトに奴隷と売られたヨセフが、奇しき運命で(すなわち、神に祝福され恵まれて)エジプトの宰相になった。
 飢饉のためにヤコブの子らはエジプトに食糧を求めに来た。兄弟たちを認識したヨセフがいろいろと企む。
 今週の聖句から何を学ぶべきか。まだ、ドラマは途中であり、次の週の部分で大展開する。
 今週では、異国の地で成功したヨセフが、自分の身分を隠し、兄弟に対応している。復讐をしようというのか? 全部を見なければ、天の意図は分からない。壮大なユダヤ民族の歴史は今も、人には不可解な展開で、続いているといっても良いかもしれない。

 シナゴーグで同時に読まれる預言書は、ゼカリヤ書2・14~4・7。(預言書朗読をハフタラという)
 バビロン補囚から帰ってエルサレム再建の苦労を綴る預言書である。ユダヤ人の共通の運命を語っている。
 「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる」(4・7)

 ゼルバベルとは、帰還ユダヤ人の君主(総督、ダビデの子孫)で、山とは困難を象徴する。補囚の運命から解放されたが、ユダヤ民族にはまだ再建の苦労が待っている。しかし、神は預言者ゼカリヤを通して、救いを約束し、激励する。

 ちょうど、飢饉の苦難にあったイスラエルの子らを、神はヨセフを用いて救うのが、ここの物語である。
 偶然に、ハヌカの祭りも同様なメッセージを我々に送っているような気がする。
 人生において、勝利しなくてはならぬ。信仰とは神の恵みよって勝つことである。イスラエルの名の由来のように。奴隷のヨセフのように。ゼルバベルに導かれた帰還ユダヤ人のように。ハヌカの祭りの背景にある、マカベア戦争のユダヤ人のように。

 現代のイスラエルも、国連安保理事会でアメリカに裏切られたが、心配に及ばず。

 

今週の聖句「ヴァイシュラフ」 ヤコブのイスラエルへの変貌は
 今週の聖句(パラシャット・ハシャブア)は、「ヴァイシュラフ」創世記32・4~36・43である。
 先週の聖句の箇所は書き損ねたが、イサクの息子、兄エサウと弟ヤコブの物語が先週と今週にわたって展開する。
 ヤコブは兄をだまして、父イサクの祝福を奪い取る。それから兄を恐れて、逃亡し、母の故郷で伯父ラバンのもとで暮らし、妻のレアとラケルを得る。そして物質的に成功して、これではいかんと、故郷に戻ろうとする。
 しかし、恐ろしいのは兄エサウである。これが今週読むところ。

 ヤコブが兄に面会して、和解するために努力をする。これこそ、ユダヤ民族の外交術のお手本とされるので、面白い。
 さて、ヴァイシュラフというのは「遣わした」というヘブライ語。ヤコブが僕たちをエサウの元に、使者として遣わしたという、文章の冒頭から題名にした。その時、言うべき台詞を命じた。それがいろいろ問題にされるのである。
 ヤコブはエサウに「あなたの僕ヤコブ」と言ったのである。自己卑下するのは良くない、という意見と、敵対する相手にはまず低姿勢で行くべきで、良いという人もある。
 ヤコブの心境はどうであったか。会見の前に、家族を先に国境の川を渡らせ、彼は独り残った。
 それから、ヤコブは何者かと格闘をする。夜明けまで勝負がつかない。その人は、ヤコブに「イスラエル」という名を与えて去る。
 聖書は、その者が何かは語っていない。ただ、ヤコブが「神と人と闘って勝った」という意味で、イスラエルと呼んだ。ヤコブを祝福して、去った。ヤコブは「神を見た」といった。
 この出来事が、エサウに会う前のことだというとき、ヤコブの心霊に重大な感化を与えたことに気がつく。
 ユダヤ伝説では、格闘した相手は、エサウの天使であるという説もある。
 ここをヤコブの自分との闘い、とも見られるだろう。ヤコブが独りで過ごしたとは、神の前に祈ったとも見られる。徹夜して祈りに祈った。そして、彼は人格変貌したのか。名前が変わるとき、その本質の変化を表す。

 イスラエルというのは、ヤコブの新しい名である。それが後の時代に民族の名となった。
 イスラエル民族の本質は、この祈りの民であるところにあろう。

 まだまだ、他にも興味の尽きない聖句の箇所だが、エサウとヤコブの兄弟がやがてエドムとイスラエルという民族の相克の物語につながっていく。預言書には、エドムへの批難が語られる。今週は、預言書の「オバデヤ書」を同時に読むそうだ。

 ユダヤ人は、イスラエルを迫害しいじめる者はこのエサウだけにとどまらず、歴史上で次々と「エドム」が登場すると考えている。だから、聖書はサバイバルのための教科書である。


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