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河合一充

Author:河合一充
(かわいかずみつ)
 イスラエルと日本の架け橋を願って、85年株式会社ミルトスを創設。イスラエル・ユダヤ・聖書関連の出版編集をもって、日本の社会にささやかな貢献を願った。現在現役をリタイアを考える。ヘブライズムの基なる思想を紹介したいと思っている。

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河合一充 くだん日記
思いつくままに、イスラエル・ユダヤ・聖書・日本など書き連ねる。よってくだんのごとし。
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今週の聖句「ヴァイェラ」 アブラハムの犠牲とは何か 
 今週の聖句は創世記18・1~22・24、「ヴァイェラ」と呼ばれる箇所。
 アブラハムの人生行路は、たびたび試練にさらされる。それは神に召されて新出発して以来ずっとだ。
 まだ人間的に未熟な段階から、十分に成長し、そして奇跡的に高齢で子供が授かるまでの、いろいろの物語が、一気に今週の朗読箇所に語られてある。じっくり取り組めば何ヶ月も要しそうな分量である。

 有名な22章は「イサクの献供」(我が子イサクを焼き尽くす献げ物にすること)である。
 神のアブラハムへの呼びかけは、やっと与えられた一人子イサクを焼き尽くす献げ物として献げよ、というのである。
 これをアブラハムの試練10あるうちの最後の試練と言われる。
 古来、多くの議論がなされてきた。毎年ユダヤ人はこの箇所を読む。でも、読み尽くせない。また、ユダヤ民族としては、このような犠牲を払ってきたし、払わざるを得ないだろう。この犠牲の意味は何だろうか。

 アブラハムは、その出発に当たり、神より全人類の祝福の基となる約束を与えられた。約束という以上に、彼の使命となったはず。レーゾンデテール(存在意義)である。その使命を果たすのは、彼の跡継ぎがいてこそ実現の希望がある。その子を献げよ、つまり彼の場合、殺せといわれた。イサクを失っては全ておじゃんではないか。愛する者を失う悲しみを経験する人は少なくない。アブラハムの胸の内はいかばかり張り裂けようとしたか。
 しかし、この神から試練を、愛する者を犠牲にすることを、進んで実行できるかどうかに、矮小化しては意味は小さくなる。
 アブラハムは、人生をかけた使命を担っていた。それまでの人生を賭してきた。それが不可能になるのである。愛児を失っても立ち上がる人はいるだろう、その場合生きる使命(男ならよくあり得る)をどこかで見いだしているからだ。

 アブラハムの犠牲は、神によって与えられた使命を捨てよ、ということにもなる。
 アブラハムは、それをを覚悟して、「ただ神を信じた」、神のご計画(宇宙の経綸)を信じた。自分のこれまでの信仰や信条や生きる目的も放棄した。東洋流にいうならば、「我を放棄した」のであろう。

 神は、時として、また人生の最後に、人間の最も大事に思うものを捨てよとお命じになる。それは単に目に見える者や物でない。人その内に大事にしてきた何かである。存在意義なるものか、これこそ世にも人にも価値あると自負する使命感かもしれない。それよりも、「無我」になって神の人格的呼びかけに従うことが大事ということ。後期高齢にいたって、信仰生活50数年の今、しみじみとアブラハムに思いを致している。

 キリスト教の信仰には、イサクの犠牲はイエス・キリストの予表、予型という解釈がある。神ですら、最も愛する子を献げたとする。信仰思想としては真であろう。それを真として人が生きるのは、また別次元である。



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