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プロフィール

河合一充

Author:河合一充
(かわいかずみつ)
 イスラエルと日本の架け橋を願って、85年株式会社ミルトスを創設。イスラエル・ユダヤ・聖書関連の出版編集をもって、日本の社会にささやかな貢献を願った。現在現役をリタイアを考える。ヘブライズムの基なる思想を紹介したいと思っている。

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河合一充 くだん日記
思いつくままに、イスラエル・ユダヤ・聖書・日本など書き連ねる。よってくだんのごとし。
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メシアを待望するとは どういうことか
 中世ユダヤの大賢者ランバム(1135–1204 CE)のことを昨日、触れたが、彼の生きた時代はイスラム教やキリスト教が興隆していたので、対抗上、理性的な議論をせざるを得なかったにちがいない。(もともと理屈が好きだったのかもしれない?)
 他の一神教のほうは、神学や哲学が盛んであった。ギリシャ哲学の文献は、アラビア語で残っていて、アラビア語圏にいるユダヤ人学者も精通していたわけである。ユダヤ教は一体何を信じているのか、そんな問いが投げかけられて、ランバムは最低限度の信条を作った。
 現在、ユダヤ教の祈祷書にも載っている「13箇条の信条Thirteen Principles シュロシャーアサル・イカリーム」である。「アニー・マアミーン・ベエムナ・シュレマー(全き信仰をもって我らは信ずる・・・)」という言葉で、信条が13箇綴られている。
 その第12箇条が「メシアの到来を信ずる」である。

 だから、これを否定するユダヤ教徒はいないだろう。ところが、さてメシアとはだれか、何か、何時来るのか、となると、統一した見解はない。議論百発である。もちろん、キリスト教の「メシア」観とも、別のものである。(詳しくは『バルセロナの宮廷にて ユダヤ教とキリスト教の論争』(ミルトス刊2007年)をご覧いただきたい)

 ユダヤ教の思想を簡潔に表現をするとすれば、「歴史には目標があり、その最終目標が実現する日(終末の日)に向かって神の計画は進んでいる」。そして、その日をもたらすのがメシア。しかし、メシアが人格なのか、否、理想的な時代なのか、それは曖昧である。(ヘブライ語では、アハリート・ハヤミーム日々の終わりと言い、終わりの日ではない)

 聖書と古代賢者の言葉を引用しておこう。

 「見よ、主の日が来る。・・・主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」(ゼカリヤ14・9)

 「あなたが樹を植えているとき、メシアが来たという知らせを聞いたならば、まず樹を植えなさい。それから走って彼に挨拶をしなさい」(ヨハナン・ベンザカイ)
 ヨハナン・ベンザカイという賢者は、紀元1世紀エルサレム神殿をローマに破壊され、ユダヤ民族が存続の危機に瀕したとき、ヤブネという田舎の町に、トーラー(律法)を学ぶ学塾をつくってユダヤ教を救い、ユダヤ民族の生存の基礎を据えた。それを思うと、含蓄の深い言葉である。「メシアを待望する」といっても、空に待つのでない。明日のために、人は今日現実にすべきことがあり、それをきちんとすることである。樹を植えるとは、自分のためではなく、明日を生きる子孫に良きものを残すことを意味する。
 
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