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プロフィール

河合一充

Author:河合一充
(かわいかずみつ)
 イスラエルと日本の架け橋を願って、85年株式会社ミルトスを創設。イスラエル・ユダヤ・聖書関連の出版編集をもって、日本の社会にささやかな貢献を願った。現在現役をリタイアを考える。ヘブライズムの基なる思想を紹介したいと思っている。

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河合一充 くだん日記
思いつくままに、イスラエル・ユダヤ・聖書・日本など書き連ねる。よってくだんのごとし。
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渇いたとき 聖書を開けてみたら いかが
 これまで、ユダヤ人は旧約聖書をヘブライ(語)聖書と呼んできたこと、そしてそれは紀元1世紀の終わり頃、今の書巻にまとめられて、「何も加えず、何も引かず」の原則をつくったことをお話しした。
 もちろん、イエス・キリストが聖書といったとき、このヘブライ聖書をさす。
 それなのに、キリスト教会ではそれほど大事にされない。本末転倒はこの事なんだろうね。

 さて、今日思ったのは、「何も加えず」というときに、当時、聖書に近い教典、聖典類は他になかったのだろうか。いやいや、あった、あった。今、外典、偽典と呼ばれる文書群である。それでは、何が聖書の基準だったのだろうか? 含めるか含めないか、ラビの会議の議論の的だったはず。

 素朴に人々が聖書と認めていた時代は長かった。
 しかし、現代人に頭から「聖書は神の言葉である」と言ってしまえば、もう何をか言わんや、拒否するに決まっている。多くの人は、古典文学として呼んでいるに過ぎない。それでは、もったいないと思うが、聖なる書だと言っても現代人を説得しがたいだろう。

 でも、次のようなラビの言葉なら、少しは納得できると思うのだ。タルムード(紀元6世紀編纂)に
凡ての世代について言われた預言のみ、記録された。ユニバーサルな、つまり普遍的なメッセージのないもの(預言、言葉)は聖書に保存されることはなかった」(メギラー14a)

たとえば、エレミヤ哀歌に「夜、初更にに起きて叫べ。主の前に、あなたの心を水のように注ぎ出せ」(2:19)つまり、神に祈れ、祈れ、というわけである。なぜなら、続く箇所にあるのは、イスラエルの子らが街角で飢えて衰えているから。
 現代の若者も、同様に、精神的に飢えているから、彼らのために嘆け!
 ユダヤ教に帰らず、ヒンズー教やラマ教に、麻薬に、物質文化に走るイスラエルの若者がいるではないか、と嘆く宗教家がいるのを知っている。

 日本の若者は、果たして、心の飢え渇きは満たされているのだろうか?

 これが、聖書の訴えることだと、ユダヤ賢者はいうのである。






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