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プロフィール

河合一充

Author:河合一充
(かわいかずみつ)
 イスラエルと日本の架け橋を願って、85年株式会社ミルトスを創設。イスラエル・ユダヤ・聖書関連の出版編集をもって、日本の社会にささやかな貢献を願った。現在現役をリタイアを考える。ヘブライズムの基なる思想を紹介したいと思っている。

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河合一充 くだん日記
思いつくままに、イスラエル・ユダヤ・聖書・日本など書き連ねる。よってくだんのごとし。
福音書はもともとヘブライ語で
 ただ今、「みるとす」編集、胸突き八丁に至った。でも、もう頂上が見えだした。
 新約聖書関連の記事を書いている。
 私のライフワークは、「新約聖書の共観福音書はもともとヘブライ語で伝えられ、ヘブライ語を学べばもっと深く福音書は理解できる」という信念で、キリスト教徒の間にヘブライ語への関心をもってもらうこと。

 言い換えれば、イエス・キリストの言葉はアラム語であった、という定説をひっくり返すことである。
 ちゃんとヘブライ語を話し、ヘブライ語で祈り、ヘブライ語で教えられた。
 当時のエルサレムの人々もそうだった。
 これはシュムエル・サフライ元ヘブライ大学の教授から学んだことである。

 それに関連して、マタイ伝がもともとヘブライ語原文だった痕跡があるので、紹介したい。
 洗礼者ヨハネのことばに、
「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな(自慢するな、ということ)
 神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(3・9)
(造り出す、というより「起こす」のが適切)

 ここの「石」と「子」はヘブライ語でアバニームバニーム(それぞれ複数形)である。
 聖書の原文は、実は語呂合わせになっている。アラム語ではこうならない。
 洗礼者ヨハネがヘブライ語で人々に語った、その可能性は大きい。

 面白くない? すいません。でも覚えて、石はエベン、子はベンといいます。(単数形)
 一つ、お利口になったでしょ。

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ヘブライ語は簡潔で格言向き 「箴言」の1節
 ヘブライ語は表現が簡潔である。格言に向いた言葉だ。
 弊社で出したヘブライ語対訳聖書の「箴言」は、ヘブライ語を知らなくても、その言葉の妙味が推測できる。
 日本語訳と比較すると面白い。

 箴言16:1について
 新共同訳 「人間は心構えをする/主が舌に答えるべきことを与えてくださる」

 口語訳 「心にはかることは人に属し/舌の答えは主から出る」

 どうも同じ原文の翻訳とは思えない。それに、意味が不明である。箴言は、一種の知恵の諺だから、解釈にゆとりがあるが、それにしても何だかわからない。

 原文は全部で6語、つまり3語の文の対句になっている。
 レアダム(人に)・マアルヘー(備え)・レブ(心の)
 ウメアドナイ(そして主から)・マアネー(答えは)・ラション(舌の)


 原文のニュアンスは、語呂合わせになっていて、覚えやすい。
 アダムとアドナイ、マアルヘーとマアネー、レブとラションが似た発音で意味も対句になっている。

 後の句の前置詞ウは、意味深長である。「そして」とも「しかし」とも解釈できる。
 ここにヘブライ語の深さか、曖昧さか、どちらとも取れるが、読む人にお任せだ。原文は区別がないのだから。

 私は、ここは新共同訳よりも、口語訳のほうが良いように思う。
 この箴言の1節は、9節の口語訳「人は心に自分の道を考え計る/しかし、その歩みを導く者は主である」
に近いだろう。

 ヘブライ語の何たるかをちょっとご紹介。
 勉強を始めたい方は、先ず『今日から読めるヘブライ語』からどうぞ。
「今日から読めるヘブライ語」制作中
 次の出版計画は、「今日から読めるヘブライ語」を我が社の谷内編集員が執筆中である。
 ヘブライ語を全然知らない人を対象に、まず、ヘブライ語の文字を覚えて、母音記号にそって単語が読めるようになること、そしてヘブライ語とはどんな言語か、簡単な文法を紹介する。
 しかし、けっして無味乾燥な文法の教科書を目指さない。読みながら、全体的にヘブライ語とはこんな言葉かと分かれば、後は次のヘブライ語入門書に、すぐ馴染める。
 谷内には、ヘブライ大学の言語学科での体験を交え、面白くためになるコラムを数々書いてもらう。

 弊社としては、学べば素晴らしい収穫を約束しているヘブライ語学習の道を、もっと皆さんに開放したい願っている。

 3月上旬には出版できる予定である。乞う、ご期待!
聖書対訳を協力してくれるNさんに感謝
 昨日は、友人のNさんが事務所に来てくれた。対訳シリーズの校閲をお願いしている。
 弊社でヘブライ文化研究所と称する部門を立ち上げて、イスラエルでヘブライ語や聖書を勉強してきた人たち幾人かに協力を頼んでいる。ありがたい。

 彼と、これから、もう一度、聖書をヘブライ語の原文で読む運動を盛り上げていこう、と話は佳境に入って、嬉しかった。
 やはり聖書を各自がこつこつ読み、通読、精読、心読を繰り返すことによって、根源的なところから聖書の信仰を体得できるのではないか。さらに望ましいのは、ヘブライ語が少しでも分かる者は、聖書の原文にそれぞれ肉薄するくらいの気構えがほしいね、と共鳴したわけである。

 弊社としては、日本で初めて、ヘブライ語聖書に対訳をつけて逐語訳で原文を味わえるような本を企画した。旧約聖書全巻では、45巻になる予定であるが、なかなか遅々として進まない。
 19巻を発刊したが、今回の「列王記上2」で20巻目になる。イスラエル王国の歴史の部分は、無味乾燥のところもあるが、今回の預言者エリヤが登場して、すこぶる面白くなった。

 Nさんが言うのに、40年前の9月6日にイスラエルからギリシアに渡った。それをきっかけに、ギリシア語をアテネの大学で学ぶことになり、自分の人生行路はがらりと変わったという。1年前に購入した日本からの航空券にギリシア行きも含まれていて、失効する前に、ちょっと出かけたという偶然からだ、と思っていたがそうではなかった、と彼はそれも摂理だったと思うと言った。
 そう言えば、私も40年前の9月2日に、米国留学に立った。

 40というのは、聖書流に言えば、完成を意味する。40年経って、いろいろ回顧すると、全て偶然ではなかった、と人の愛、神の導きに感謝の思いが湧いてならない。


祖国とは国語 ヘブライ語の場合
 去る4月のこと、国民文化研究会という会で、藤原正彦氏の講演、『祖国とは国語』を聴講したことがある。その講演要旨がまとめられた会報を、同会から送っていただいた。
 このブログ4月25日に、すでに書いているし、同名の著書が新潮文庫にあり、有名であるので、ここで詳しく説明する必要もないだろう。
 講演でも、なぜ国語教育が重要かを語っておられたが、「初等教育では、一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下」という氏の原則を強調された。
 
 「祖国とは国語」は、フランスの詩人エミール・シオランの言葉で、「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ」ということ。それを藤原先生は、借用したという。
 その典型的な例として、ユダヤ人のことを引いておられた。
 日頃から、私も思い、言ってきたことなので、その部分を引用してみよう。

 「ユダヤ人は二千年前に国を無くしてずっと流浪を重ねてきたが、……ヘブライ語という言語、ユダヤ教という宗教を大事にすることによって、後にイスラエルを建国し再生できた。これは国語が、その国の文化、伝統、情緒を全て含んでいるということを示している。国語を潰してはどうしようもない。特に最近は『英語』による一様化が進む中、どうしても守らなければならないものが民族のアイデンティティであり、その筆頭が言語だ。」(月刊『国民同胞』8月10日発行より)
 この会報は少数頁だが、なかなか良い内容です。私は会員ではないですが、ご参考に。国民文化研究会:電話03-5468-6230