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プロフィール

河合一充

Author:河合一充
(かわいかずみつ)
 イスラエルと日本の架け橋を願って、85年株式会社ミルトスを創設。イスラエル・ユダヤ・聖書関連の出版編集をもって、日本の社会にささやかな貢献を願った。現在現役をリタイアを考える。ヘブライズムの基なる思想を紹介したいと思っている。

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河合一充 くだん日記
思いつくままに、イスラエル・ユダヤ・聖書・日本など書き連ねる。よってくだんのごとし。
ハヌカとクリスマス 共通点あり 今週の聖句「ミケッツ」と重ねて考えると
  今年の12月25日は、偶然にキリスト教のクリスマスとユダヤ教のハヌカの祭りが一致した。ハヌカは今日から8日間続く。それで最終日は1月1日に来る。逆に、キリスト教ではクリスマスの前にアドベント(待誕節)という4週間の備えがある。
 ただし、共通点がある。それは光の祭りであることだ。
 冬の季節が到来すると、日が短くなり、光が恋しくなる。非宗教国の日本でクリスチャンでもないのに、世の中はクリスマスをまあ世俗的だが、迎えている。その迎え方に、イルミネーションは都会で盛んである。家の近くの小さなバラ庭園でも然り。日本のクリスマス風景を、あながち、コマーシャリズムのせいとして批難するにも及ばないと最近は思いだしている。人は「光」を求めているからだ。まだ分からないそれを人々は求めている。

 さて、今週の聖句は「ミケッツ」創世記41・1~44・17である。ヤコブの息子ヨセフと兄弟の出会いの物語が、その内容。
 兄弟に厭われてエジプトに奴隷と売られたヨセフが、奇しき運命で(すなわち、神に祝福され恵まれて)エジプトの宰相になった。
 飢饉のためにヤコブの子らはエジプトに食糧を求めに来た。兄弟たちを認識したヨセフがいろいろと企む。
 今週の聖句から何を学ぶべきか。まだ、ドラマは途中であり、次の週の部分で大展開する。
 今週では、異国の地で成功したヨセフが、自分の身分を隠し、兄弟に対応している。復讐をしようというのか? 全部を見なければ、天の意図は分からない。壮大なユダヤ民族の歴史は今も、人には不可解な展開で、続いているといっても良いかもしれない。

 シナゴーグで同時に読まれる預言書は、ゼカリヤ書2・14~4・7。(預言書朗読をハフタラという)
 バビロン補囚から帰ってエルサレム再建の苦労を綴る預言書である。ユダヤ人の共通の運命を語っている。
 「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる」(4・7)

 ゼルバベルとは、帰還ユダヤ人の君主(総督、ダビデの子孫)で、山とは困難を象徴する。補囚の運命から解放されたが、ユダヤ民族にはまだ再建の苦労が待っている。しかし、神は預言者ゼカリヤを通して、救いを約束し、激励する。

 ちょうど、飢饉の苦難にあったイスラエルの子らを、神はヨセフを用いて救うのが、ここの物語である。
 偶然に、ハヌカの祭りも同様なメッセージを我々に送っているような気がする。
 人生において、勝利しなくてはならぬ。信仰とは神の恵みよって勝つことである。イスラエルの名の由来のように。奴隷のヨセフのように。ゼルバベルに導かれた帰還ユダヤ人のように。ハヌカの祭りの背景にある、マカベア戦争のユダヤ人のように。

 現代のイスラエルも、国連安保理事会でアメリカに裏切られたが、心配に及ばず。

 

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今週の聖句「ヴァイシュラフ」 ヤコブのイスラエルへの変貌は
 今週の聖句(パラシャット・ハシャブア)は、「ヴァイシュラフ」創世記32・4~36・43である。
 先週の聖句の箇所は書き損ねたが、イサクの息子、兄エサウと弟ヤコブの物語が先週と今週にわたって展開する。
 ヤコブは兄をだまして、父イサクの祝福を奪い取る。それから兄を恐れて、逃亡し、母の故郷で伯父ラバンのもとで暮らし、妻のレアとラケルを得る。そして物質的に成功して、これではいかんと、故郷に戻ろうとする。
 しかし、恐ろしいのは兄エサウである。これが今週読むところ。

 ヤコブが兄に面会して、和解するために努力をする。これこそ、ユダヤ民族の外交術のお手本とされるので、面白い。
 さて、ヴァイシュラフというのは「遣わした」というヘブライ語。ヤコブが僕たちをエサウの元に、使者として遣わしたという、文章の冒頭から題名にした。その時、言うべき台詞を命じた。それがいろいろ問題にされるのである。
 ヤコブはエサウに「あなたの僕ヤコブ」と言ったのである。自己卑下するのは良くない、という意見と、敵対する相手にはまず低姿勢で行くべきで、良いという人もある。
 ヤコブの心境はどうであったか。会見の前に、家族を先に国境の川を渡らせ、彼は独り残った。
 それから、ヤコブは何者かと格闘をする。夜明けまで勝負がつかない。その人は、ヤコブに「イスラエル」という名を与えて去る。
 聖書は、その者が何かは語っていない。ただ、ヤコブが「神と人と闘って勝った」という意味で、イスラエルと呼んだ。ヤコブを祝福して、去った。ヤコブは「神を見た」といった。
 この出来事が、エサウに会う前のことだというとき、ヤコブの心霊に重大な感化を与えたことに気がつく。
 ユダヤ伝説では、格闘した相手は、エサウの天使であるという説もある。
 ここをヤコブの自分との闘い、とも見られるだろう。ヤコブが独りで過ごしたとは、神の前に祈ったとも見られる。徹夜して祈りに祈った。そして、彼は人格変貌したのか。名前が変わるとき、その本質の変化を表す。

 イスラエルというのは、ヤコブの新しい名である。それが後の時代に民族の名となった。
 イスラエル民族の本質は、この祈りの民であるところにあろう。

 まだまだ、他にも興味の尽きない聖句の箇所だが、エサウとヤコブの兄弟がやがてエドムとイスラエルという民族の相克の物語につながっていく。預言書には、エドムへの批難が語られる。今週は、預言書の「オバデヤ書」を同時に読むそうだ。

 ユダヤ人は、イスラエルを迫害しいじめる者はこのエサウだけにとどまらず、歴史上で次々と「エドム」が登場すると考えている。だから、聖書はサバイバルのための教科書である。
ヨーロッパに反ユダヤ主義が増大しつつあり イサクの井戸掘りに見る祝福と妬み 
 今週の聖句は創世記25・19~28・9「トルドット」という箇所である。
 聖書を開けて読むと、すぐ分かるように、イサクの系図から始まる。そしてイサクの子供の物語、つまりエサウとヤコブの双子が登場し、続いてイサクへの祝福、そして井戸を掘り続ける話。その後は、有名なヤコブがエサウから長子権を奪いさらに、父の祝福をも盗み取るヤコブの物語でクライマックスとなる。
 私が今回注目したのは、イサクの井戸の物語である。創世記25・12~33には、イサクの争わない性格が良く表現されているが、またユダヤ民族の宿命ともいうべき「反ユダヤ主義」が初登場している。
 イサクは種をまき、祝福されて百倍の収穫を得る(26章12節)。さらに、富み栄え、多くの羊、牛、またしもべをも持った。すると、ペリシテ人は彼を妬んだ(同14節)。アブラハム以来掘ってきた井戸をふさぎ、土で埋めるという意地悪をした。
 さらに、追われるイサクは無駄に争わず。なぜ?と思うが、ペリシテ人が大勢なのでか? いや、そこがイサクの生き方だろう、神に信頼して祝福を信じてか、井戸を新たに次々と掘っていく。ベエルシェバの名が出る。そこにも井戸を掘り当てた。
 この物語は、イサクをいじめる敵の動機は、「妬み」であると知らせている。

 これは今日に至るまでの真実である。イスラエル人(ユダヤ民族)が外の人間から見て「優秀な民」なので、嫉妬のために彼らを迫害したくなるという、歴史の真実をイサクの物語が象徴しているように思われる。

 イスラエルのネット紙Ynetnewsに載っていたあるコラム記事に、私は納得した。ノア・クリーガーNoah Kliegerという90歳にもなるイスラエルのジャーナリストの文である。彼はホロコースト・サバイバーで、特にヨーロッパの反ユダヤ主義に詳しく、実態を報道してくれる。
 彼は言う、「最近のヨーロッパに反ユダヤ主義、特に反イスラエルが衰えるどころか、それが国民感情のなかに増大している。自分は非常な関心をもって、ヨーロッパの多くの人に接触してその原因を知る努力をした。結論は、嫉妬である。ヨーロッパに住むユダヤ人の問題でも、パレスチナ問題でもない。イスラエルがあまりに優秀なので(あらゆる分野で卓越している、建国わずか70年にもならぬ国が世界をリードしてる)、妬ましくてならないからだと、自分は知った」
 まるで、イサクの井戸掘りを連想したのである。
 イスラエル人は、自分たちが優秀だとは言わないだろう。神の祝福のせいであると言うだろう。 

 「エルサレムのために平安を祈れ。
  エルサレムを愛する者は栄える
」(詩編122・6)
 
今週の聖句 「ハイェー・サラ」 アブラハムの墓地選びと購入
 今週の聖句は、創世記23・1~25・18の「ハイェー・サラ」という箇所。
 ハイェー・サラというのはサラの命(サラの生涯、サラの一生)という意味である。ところで、23章はサラの死が告げられて、アブラハムが妻のために墓地を買う物語である。ストーリーは難しくないが、よく考えてみればいろいろ難問が出てくる。
 まず、サラが死んでから、墓地の入手を試みている。なぜ前もって用意をしなかったのか。なぜこの地なのか。
 しかも、神はアブラハムにこの土地を与えると約束したのに、アブラハムはなぜわざわざ、土地の代価を払って所有としたのか。
 この墓地とは、ヘブロンのマムレの前のマクペラの洞窟であった。その周囲の畑と共に、ヘテ人(ヒッタイ人)のエフロンから、銀400シケル(原文シェケル)で買い取った。この子細な情報は説明を要するが、それはさておいて、現実に土地の売買取引を契約して、イスラエル民族が所有をしたと宣言している。
 聖書は、13章15節に神はアブラハムに「すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます」と約束した。だから、アブラハムはお金を払う必要もなかったはずである。(しかも法外な値段だったらしい)
  このマクペラの洞窟は、やがてアブラハム、イサク、ヤコブの夫妻の墓地になった。ヘブロンのこの墓地は、現代もユダヤ教の聖地とされている。イスラム教徒も聖地として、共同管理が行われている。

 ユダヤ教の伝説は、先にふれた難問について答えようとしている。
 アブラハムは、以前からこの洞窟のことを考えていた。というか、狙っていたのである。なぜかというと、18章の3人の客人を接待するのに子牛を追っかけて、子牛の逃げ込んだ洞窟に至った。(この話を作るのに、同じマムレのテレピンの木がキーワードに使われている)。すると、エデンの園の雰囲気がただよっていた。ここは神が、アダムとエバのために掘った墓であると知った。しかし、この秘密は人に知られたくない。それゆえに、やっとサラがなくなった後に、購入する交渉をすることになったという。

 また、アブラハムの交渉の際の挨拶、「わたしは(一時の)寄留者(ゲル)です、そしてあなたがたの間で住民(トシャブ)です」(23・4)に、中世の聖書学者ラッシーは注目した。普通はさっと、ゲルもトシャブもむすびつけて、「旅のもので寄留者です」と訳してしまう。ラッシーが問題にしたのは、神がアブラハムに土地を与えると約束したのに、なぜアブラハムは土地を購入したのか。その解答を探ったわけである。
長くなるので、あとは省略します。皆さん、いろいろ考えてください。

 さてさて、老年になると、墓のことはいずれ考えざるをえなくなるものだが、アブラハムとサラの例にならっていくとしようか。
今週の聖句「ヴァイェラ」 アブラハムの犠牲とは何か 
 今週の聖句は創世記18・1~22・24、「ヴァイェラ」と呼ばれる箇所。
 アブラハムの人生行路は、たびたび試練にさらされる。それは神に召されて新出発して以来ずっとだ。
 まだ人間的に未熟な段階から、十分に成長し、そして奇跡的に高齢で子供が授かるまでの、いろいろの物語が、一気に今週の朗読箇所に語られてある。じっくり取り組めば何ヶ月も要しそうな分量である。

 有名な22章は「イサクの献供」(我が子イサクを焼き尽くす献げ物にすること)である。
 神のアブラハムへの呼びかけは、やっと与えられた一人子イサクを焼き尽くす献げ物として献げよ、というのである。
 これをアブラハムの試練10あるうちの最後の試練と言われる。
 古来、多くの議論がなされてきた。毎年ユダヤ人はこの箇所を読む。でも、読み尽くせない。また、ユダヤ民族としては、このような犠牲を払ってきたし、払わざるを得ないだろう。この犠牲の意味は何だろうか。

 アブラハムは、その出発に当たり、神より全人類の祝福の基となる約束を与えられた。約束という以上に、彼の使命となったはず。レーゾンデテール(存在意義)である。その使命を果たすのは、彼の跡継ぎがいてこそ実現の希望がある。その子を献げよ、つまり彼の場合、殺せといわれた。イサクを失っては全ておじゃんではないか。愛する者を失う悲しみを経験する人は少なくない。アブラハムの胸の内はいかばかり張り裂けようとしたか。
 しかし、この神から試練を、愛する者を犠牲にすることを、進んで実行できるかどうかに、矮小化しては意味は小さくなる。
 アブラハムは、人生をかけた使命を担っていた。それまでの人生を賭してきた。それが不可能になるのである。愛児を失っても立ち上がる人はいるだろう、その場合生きる使命(男ならよくあり得る)をどこかで見いだしているからだ。

 アブラハムの犠牲は、神によって与えられた使命を捨てよ、ということにもなる。
 アブラハムは、それをを覚悟して、「ただ神を信じた」、神のご計画(宇宙の経綸)を信じた。自分のこれまでの信仰や信条や生きる目的も放棄した。東洋流にいうならば、「我を放棄した」のであろう。

 神は、時として、また人生の最後に、人間の最も大事に思うものを捨てよとお命じになる。それは単に目に見える者や物でない。人その内に大事にしてきた何かである。存在意義なるものか、これこそ世にも人にも価値あると自負する使命感かもしれない。それよりも、「無我」になって神の人格的呼びかけに従うことが大事ということ。後期高齢にいたって、信仰生活50数年の今、しみじみとアブラハムに思いを致している。

 キリスト教の信仰には、イサクの犠牲はイエス・キリストの予表、予型という解釈がある。神ですら、最も愛する子を献げたとする。信仰思想としては真であろう。それを真として人が生きるのは、また別次元である。