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プロフィール

河合一充

Author:河合一充
(かわいかずみつ)
 イスラエルと日本の架け橋を願って、85年株式会社ミルトスを創設。イスラエル・ユダヤ・聖書関連の出版編集をもって、日本の社会にささやかな貢献を願った。現在現役をリタイアを考える。ヘブライズムの基なる思想を紹介したいと思っている。

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河合一充 くだん日記
思いつくままに、イスラエル・ユダヤ・聖書・日本など書き連ねる。よってくだんのごとし。
ドイツ・ベルリン新空港の建設 まだ出来ない
 イスラエルのジャーナリスト、ノア・クリーガー氏が「新たな反ユダヤ主義の主な理由は『嫉妬』である」と伝えたコメント記事を昨日、紹介した。それはあまりにもイスラエルが優秀な国家であるために、ヨーロッパ人はうらやましく思っていると。
 そのうえ、イスラエル国家の誤りをずいぶん指摘するのがヨーロッパ人だという。

 クリーガー氏は、彼の弁論として、だれでも誤りをするし、イスラエルも同様だ、しかしドイツも訳の分からない誤りをしているとして、一例を挙げた。それは、ベルリンの新国際空港の建設のこと。世界で最も進んだ設備で、最も美しい空港の名の下で、設計建設されて2011年に完成の予定であった。ところが、何度も完成は延期になって、やっと2016年に、といわれた。しかし、事実は、専門家によれば、2019年以前に完成は難しいとか。これが「天才」ドイツ人の仕事である。
 空港名は、ブランデンブルグ空港、またの名はヴィリー・ブラントという。計画が始まったのは1998年で、当初開港は2007年だったという。それが20年以上かかるとは!
 どうも東京の豊洲市場どころではないね。

 国家的プロジェクトが進められるときに、本質的にその国民性の総合力が問われるのである。


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ヨーロッパに反ユダヤ主義が増大しつつあり イサクの井戸掘りに見る祝福と妬み 
 今週の聖句は創世記25・19~28・9「トルドット」という箇所である。
 聖書を開けて読むと、すぐ分かるように、イサクの系図から始まる。そしてイサクの子供の物語、つまりエサウとヤコブの双子が登場し、続いてイサクへの祝福、そして井戸を掘り続ける話。その後は、有名なヤコブがエサウから長子権を奪いさらに、父の祝福をも盗み取るヤコブの物語でクライマックスとなる。
 私が今回注目したのは、イサクの井戸の物語である。創世記25・12~33には、イサクの争わない性格が良く表現されているが、またユダヤ民族の宿命ともいうべき「反ユダヤ主義」が初登場している。
 イサクは種をまき、祝福されて百倍の収穫を得る(26章12節)。さらに、富み栄え、多くの羊、牛、またしもべをも持った。すると、ペリシテ人は彼を妬んだ(同14節)。アブラハム以来掘ってきた井戸をふさぎ、土で埋めるという意地悪をした。
 さらに、追われるイサクは無駄に争わず。なぜ?と思うが、ペリシテ人が大勢なのでか? いや、そこがイサクの生き方だろう、神に信頼して祝福を信じてか、井戸を新たに次々と掘っていく。ベエルシェバの名が出る。そこにも井戸を掘り当てた。
 この物語は、イサクをいじめる敵の動機は、「妬み」であると知らせている。

 これは今日に至るまでの真実である。イスラエル人(ユダヤ民族)が外の人間から見て「優秀な民」なので、嫉妬のために彼らを迫害したくなるという、歴史の真実をイサクの物語が象徴しているように思われる。

 イスラエルのネット紙Ynetnewsに載っていたあるコラム記事に、私は納得した。ノア・クリーガーNoah Kliegerという90歳にもなるイスラエルのジャーナリストの文である。彼はホロコースト・サバイバーで、特にヨーロッパの反ユダヤ主義に詳しく、実態を報道してくれる。
 彼は言う、「最近のヨーロッパに反ユダヤ主義、特に反イスラエルが衰えるどころか、それが国民感情のなかに増大している。自分は非常な関心をもって、ヨーロッパの多くの人に接触してその原因を知る努力をした。結論は、嫉妬である。ヨーロッパに住むユダヤ人の問題でも、パレスチナ問題でもない。イスラエルがあまりに優秀なので(あらゆる分野で卓越している、建国わずか70年にもならぬ国が世界をリードしてる)、妬ましくてならないからだと、自分は知った」
 まるで、イサクの井戸掘りを連想したのである。
 イスラエル人は、自分たちが優秀だとは言わないだろう。神の祝福のせいであると言うだろう。 

 「エルサレムのために平安を祈れ。
  エルサレムを愛する者は栄える
」(詩編122・6)
 
今週の聖句 「ハイェー・サラ」 アブラハムの墓地選びと購入
 今週の聖句は、創世記23・1~25・18の「ハイェー・サラ」という箇所。
 ハイェー・サラというのはサラの命(サラの生涯、サラの一生)という意味である。ところで、23章はサラの死が告げられて、アブラハムが妻のために墓地を買う物語である。ストーリーは難しくないが、よく考えてみればいろいろ難問が出てくる。
 まず、サラが死んでから、墓地の入手を試みている。なぜ前もって用意をしなかったのか。なぜこの地なのか。
 しかも、神はアブラハムにこの土地を与えると約束したのに、アブラハムはなぜわざわざ、土地の代価を払って所有としたのか。
 この墓地とは、ヘブロンのマムレの前のマクペラの洞窟であった。その周囲の畑と共に、ヘテ人(ヒッタイ人)のエフロンから、銀400シケル(原文シェケル)で買い取った。この子細な情報は説明を要するが、それはさておいて、現実に土地の売買取引を契約して、イスラエル民族が所有をしたと宣言している。
 聖書は、13章15節に神はアブラハムに「すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます」と約束した。だから、アブラハムはお金を払う必要もなかったはずである。(しかも法外な値段だったらしい)
  このマクペラの洞窟は、やがてアブラハム、イサク、ヤコブの夫妻の墓地になった。ヘブロンのこの墓地は、現代もユダヤ教の聖地とされている。イスラム教徒も聖地として、共同管理が行われている。

 ユダヤ教の伝説は、先にふれた難問について答えようとしている。
 アブラハムは、以前からこの洞窟のことを考えていた。というか、狙っていたのである。なぜかというと、18章の3人の客人を接待するのに子牛を追っかけて、子牛の逃げ込んだ洞窟に至った。(この話を作るのに、同じマムレのテレピンの木がキーワードに使われている)。すると、エデンの園の雰囲気がただよっていた。ここは神が、アダムとエバのために掘った墓であると知った。しかし、この秘密は人に知られたくない。それゆえに、やっとサラがなくなった後に、購入する交渉をすることになったという。

 また、アブラハムの交渉の際の挨拶、「わたしは(一時の)寄留者(ゲル)です、そしてあなたがたの間で住民(トシャブ)です」(23・4)に、中世の聖書学者ラッシーは注目した。普通はさっと、ゲルもトシャブもむすびつけて、「旅のもので寄留者です」と訳してしまう。ラッシーが問題にしたのは、神がアブラハムに土地を与えると約束したのに、なぜアブラハムは土地を購入したのか。その解答を探ったわけである。
長くなるので、あとは省略します。皆さん、いろいろ考えてください。

 さてさて、老年になると、墓のことはいずれ考えざるをえなくなるものだが、アブラハムとサラの例にならっていくとしようか。
今週の聖句「ヴァイェラ」 アブラハムの犠牲とは何か 
 今週の聖句は創世記18・1~22・24、「ヴァイェラ」と呼ばれる箇所。
 アブラハムの人生行路は、たびたび試練にさらされる。それは神に召されて新出発して以来ずっとだ。
 まだ人間的に未熟な段階から、十分に成長し、そして奇跡的に高齢で子供が授かるまでの、いろいろの物語が、一気に今週の朗読箇所に語られてある。じっくり取り組めば何ヶ月も要しそうな分量である。

 有名な22章は「イサクの献供」(我が子イサクを焼き尽くす献げ物にすること)である。
 神のアブラハムへの呼びかけは、やっと与えられた一人子イサクを焼き尽くす献げ物として献げよ、というのである。
 これをアブラハムの試練10あるうちの最後の試練と言われる。
 古来、多くの議論がなされてきた。毎年ユダヤ人はこの箇所を読む。でも、読み尽くせない。また、ユダヤ民族としては、このような犠牲を払ってきたし、払わざるを得ないだろう。この犠牲の意味は何だろうか。

 アブラハムは、その出発に当たり、神より全人類の祝福の基となる約束を与えられた。約束という以上に、彼の使命となったはず。レーゾンデテール(存在意義)である。その使命を果たすのは、彼の跡継ぎがいてこそ実現の希望がある。その子を献げよ、つまり彼の場合、殺せといわれた。イサクを失っては全ておじゃんではないか。愛する者を失う悲しみを経験する人は少なくない。アブラハムの胸の内はいかばかり張り裂けようとしたか。
 しかし、この神から試練を、愛する者を犠牲にすることを、進んで実行できるかどうかに、矮小化しては意味は小さくなる。
 アブラハムは、人生をかけた使命を担っていた。それまでの人生を賭してきた。それが不可能になるのである。愛児を失っても立ち上がる人はいるだろう、その場合生きる使命(男ならよくあり得る)をどこかで見いだしているからだ。

 アブラハムの犠牲は、神によって与えられた使命を捨てよ、ということにもなる。
 アブラハムは、それをを覚悟して、「ただ神を信じた」、神のご計画(宇宙の経綸)を信じた。自分のこれまでの信仰や信条や生きる目的も放棄した。東洋流にいうならば、「我を放棄した」のであろう。

 神は、時として、また人生の最後に、人間の最も大事に思うものを捨てよとお命じになる。それは単に目に見える者や物でない。人その内に大事にしてきた何かである。存在意義なるものか、これこそ世にも人にも価値あると自負する使命感かもしれない。それよりも、「無我」になって神の人格的呼びかけに従うことが大事ということ。後期高齢にいたって、信仰生活50数年の今、しみじみとアブラハムに思いを致している。

 キリスト教の信仰には、イサクの犠牲はイエス・キリストの予表、予型という解釈がある。神ですら、最も愛する子を献げたとする。信仰思想としては真であろう。それを真として人が生きるのは、また別次元である。




ヘブライ語の勉強の大事さ
 私が最初にヘブライ語に触れたのは、1963年頃だったか。日本からイスラエルのキブツに学びに行った初期の留学生の1人、ピアニストの長井氏(武蔵野音大元教授)がヘブライ語の初歩を教えてくれた。若かったから、創世記1章の最初の数節を暗誦できた。それから自分でぼちぼちキブツのウルパン(語学学校)で使う教科書で勉強し始めた。最初にヘブライ語文字に馴染んでいたから出来たことだった。本当にありがたかった。
 それから14年後にイスラエルに語学研修に行く機会が与えられた。わずか半年の勉強だった。エルサレムの町のウルパンで学び、ヘブライ大学の夏の講習ウルパンカイツに参加した。会話の方は、つい英語で用を足してしまう。まあ、日本人の通弊で文法の学びはそれなりに、しかし、しゃべるのは駄目だった。聖書ヘブライ語が目的だったので、帰国後も自分で継続した。
 今は、毎日詩編を一つずつヘブライ語で読むことにしている。

 新約聖書のギリシア語は、大学2年の頃から独習して、何冊かをこなした。辞書を引きつつ、ギリシア語原文で読めるが、ある時から新約聖書のヘブライ語訳を読むようにした。イエスが話したのはヘブライ語であり、福音書のギリシア語原文は翻訳であると考えるからだ。

 最近つくづく思うのは、ヘブライ語の知識がどんなに有り難いか、である。聖書はギリシア語よりもヘブライ語で読むべきである。ヘレニズムよりヘブライズムによる理解が、聖書の真意により近づかせてくれると思っている。

 信仰がリバイバルしてくると、旧約聖書が大事に読まれ出す。そして、ヘブライ語の学習熱が燃えてくる。アメリカのピューリタンは、旧約聖書に帰って、ハーバード大学を創建した直後に、ヘブライ語の学部をつくった。無教会の内村鑑三も、それを奨励した。

 ヘブライ語の学習に役立つ出版こそ、ミルトスの大事な使命である。頑張ってほしい。